アニメーションの特性のひとつに、画面内の情報を思い切り取捨選択できることで、表現したいことにより専念できるということがあるけれど、この作品はさらに物語全体を分かり易いシステムにはめ込むことで、より先鋭化することに成功している。
それは前作から一貫していることなのだが、まさかその完成された前作の延長線上でここまでのものが用意できるとは思ってもみなかった。
それもここまで自然な形で。
まずかつてあったタツノコプロ独特の世界観によって作られた集団ヒーローものガッチャマン。
ある意味現実世界の悪意の縮図とも取れるネット上のコミュニティーにおけるアイコンのような事象。
この2つを絡めることで、エンターテイメントとしても、現在の世情に対する一つの視点としても十分に楽しめるものになっている。
ここでこんな皮肉を入れてしまうことはこの作品に対する評価に悪いものを落としてしまうのだが、それでも格好の比較対照であるが故にあえて言ってしまうと、かつてCMによって断片的に再現され、故に本来成功を期待されていた実写版が、オリジナルに近いルックを維持しようとしてたぶんそのものの本質を見落としていたのに対し、発表当時明らかに「実写版やオリジナルに対してお洒落っぽくすれば今風タツノコテイスト出せるんだぜ」的なデザインがまず先行したこのアニメリメイク版が実はオリジナルのタツノコプロ作品群すべてが持っていた魂を引き継いでいたのは、正直に言ってしまえばレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズの映画化作品でもっとも奇異な形となった『ロング・グッドバイ』にも重なってしまうんだよね。
奇しくもあの作品も監督が監督であるが故に当時の時代を色濃く反映し社会に対する痛烈な皮肉に溢れていながらハードボイルドというフォーマットの中で普遍的な友情という言葉に対するブレのないひとつの答えを示している作品であり、さらにはその答えが如何様にも取れると同時にそのいずれを肯定も否定もせずただ答えを出す過程と提示する方法においてのみ言及していることに共通点を見いだしてしまう。
そしてそんな相手に私が恋をしないはずがない。
たぶん私から観たこの作品は私が今まで見てきたネット上のコミュニティー、もしくは現代社会に対して感じてきたことすべてを肯定しているように見えるし今までもこれからも書き連ねることになると思う。
ただ、そこに明示するかもしれないししないかもしれないが、それが自分にとって正しいと感じていると同時に間違っているとも感じる。
それを探し、いつか本当に正しいことを提示するために何をし、何をしてはいけないかを常に考え続けるべきだと思う。
最後にそれだけを提示し、幕を閉じたという感じかな。
EDの後、あれは誰かの夢かもしれないと思った。
そしてあんな夢を見るのははじめちゃんただ一人。
彼女は自分のいない世界で自分を思う。
まあそれは一期の12.5話を観る前に一期に対して思っていたことと同じなんだよね。
ほんとこの作品はぶれないなあ。
それははじめちゃんがぶれないから。
前話におけるトリックは予想通りだったな。
カッツェさん、はじめちゃんのこと好きになってるよね。
止め処もなくなってきたのでこの辺で。