2008/02/10

「ロング・グッドバイ」(1953)レイモンド・チャンドラー

私にとって何物にも換えがたい2つの小説と2つの映画がある。
そのうちの1つの映画は1つの小説を映画化したものであったりもする。
「夏への扉」という小説と『フォロー・ミー』という映画と共に何物にも換えがたいと思っているその作品は清水俊二により「長いお別れ」という名で翻訳され『ロング・グッドバイ』という名でロバート・アルトマンにより映画化されたレイモンド・チャンドラーの"The Long Goodbye"という作品である。

その"The Long Goodbye"が村上春樹により「ロング・グッドバイ」という名で翻訳された。
それをようやく読む機会を得る事が出来た。

(以降、内容に触れたりもする。)

























読む前に「あとがき」という形で綴られている村上春樹による氏のこの物語との出会いから始まる思い入れと著者レイモンド・チャンドラーとこの作品との関係に対する文を先に読んだ。
この物語自身は既に何度も読んだ物であり、何故氏がこの物語を敢えて今訳そうと思ったのかを頭に入れてから読みたいと思ったからだ。
これは先に読んでおいて良かったと思う。
読み始める前は少なからず前訳者である清水俊二のものがあるにも関わらず氏が翻訳したものを出す事に少なからず不信感をいだいていたが、これを読んでその部分は氷解した。
そして氏に訳された本編もその内容に違わぬ物だったと思う。

たしかに、氏=村上春樹によって訳された物は氏による他の作品、それはドキュメンタリである「アンダーグラウンド」などまでに至るものと同様に、正しく整理され、読みやすい物であった。こんなにも分かりやすいものだったのかと思うくらいに。
しかも、元々の原書(いまだ読破できず)のトーンをより正しく受け止めたものでもある。
原書を読み始めた時に感じていた清水俊二訳との違和感も今回これを読む事でようやく理解する事も出来た。


まぁただ、それでも多感な時期、まだ何も知らない時期に読んだもの観たものというのは絶大であるということも感じた。
それは、私の知らない私の大事なものを今になって知らされたようなもの…
いや違う…私はきまじめで文学的なレイモンド・チャンドラーが書いた"The Long Goodbye"ではなく、清水俊二が訳した「長いお別れ」、ロバート・アルトマンが監督した『ロング・グッドバイ』が好きだったのだろうなぁ。
イアン・フレミングが書いたジェームズボンドシリーズではなく、井上一夫が訳したそれが好きであったように。



…などというような事を考えながら読み進めていた。



しかしそれも、いつのまにかどうでもよくなった。
訳者が変わろうとも、「長いお別れ」におけるフィリップ・マーロウの信念はほとんど変わらない。
それよりも変わったのは、まだこれを書いた時のチャンドラーの歳にはまだほど遠いものの自分がこの作品におけるマーロウと同い年になったことのほうが大きい。
初めてこの作品を読んだ時、世の中はもっと複雑で厳しいものだと思っていた。
しかし今は、物事は常にシンプルであり、人はそれにたいして目を瞑る事で複雑なものに従っているだけであるという事が少しは見えてきている。
まさに、この作品世界そのままであるということである。
もちろん、それはこの作品の世界そのものということではなく、この作品が私に訴えかけてきているものがという意味である。

それを考えると、当時の私も捨てた物じゃなかったなと思えてくる。この作品の価値を知らずのうちに汲み取っていたのだから。
あとは、今の私これからの私が当時の私の期待にいかに応えるかという事だな。

いつか、その期待に応えられるようになりたい。
その気持ちを少しでも持ち続けていたいと思う。




以上、相も変わらず意味不明な駄文書きのkanameでした。
(一応しらふ)