2010/06/06

「007 猿の手を持つ悪魔」"Devil May Care" (2008) by Sebastian Faulks

「007 猿の手を持つ悪魔」を読了。


この作品がフレミングの生誕百年記念作品として刊行されたのは知っていたものの、邦訳されていたのを実はつい先日まで知りませんでした。不覚。



まぁおかげでその時に入手していた情報すべてがまっさらな状態で読めたのはある意味得したかもしれないな。

Raymond Bensonのようにマニアックではないが、実にうまい形で今までのフレミングの描いたジェームズ・ボンドシリーズを拾い上げた作品となっていました。
ただ訳者がそれを判っていて訳しているように見えないのがちょっと引っかかったかな。
まぁ判る人には判るからヒントだけ訳中に残しておけば良いだろうという意図だったのかもしれないけれど、もう少しストレートに出てきた方が良かったかな。(まぁこれは作者のセバスチャンフォークスの意図なのかもしれないが。)
というよりはたぶん、私は井上一夫的な訳をどこかで期待していたのかもしれない。(「ここはこういう意味もある」みたいな訳注が付くような形)

まぁそういう瑣末なことは置いておけば十分に楽しめるし、楽しませるために作った小説だということがとても良く判る。

まず、時代設定をフレミングやその後継者が続けていた「刊行時点のリアルタイム」な話というところからあえて外して、フレミングの遺作となった「007/黄金の銃を持つ男」から1年半後という今となっては40年以上前(本作品の刊行当時からちょうど40年前)としたことだけで、もう過去作品との結びつきが強くなった気がする。
その当時であれば、過去作品で起こったできごとに作中のボンドが思いを寄せることがあってもより不自然さがなくなるもの。
故にルネ・マティスもフェリックス・レイターも、そしてもちろんMやマネーペニーも当時の延長線上として存在している。
(さすがにメアリー・グッドナイトはいないがローリア・ボーソンビーやメイもいるし。)

と同時に、その時期はといえばまさに冷戦まっただ中。


まさにネタの宝庫となった時代にフレミングが存命していなかったことを今更ながら気づかされた次第でもありました。


で、一方でガジェットの扱い方や舞台は、それこそ原作設定の世界感ながら映画のほうの雰囲気を持ってきているんだよな。
さながらサンダーボール的なアレとか、リビングデイライツ的なアレとか(まぁうがった見方だけれども。)

そしてやはり忘れてはならないのが、フレミング作品の特徴でもあるディテールに対するこだわり。
残念ながら後期のフレミングのように本筋忘れてしまうまでのところまではいかない(というかそれをやったらパロディになってしまう)ものの、そこの匙加減がまさにフレミング作品のツボ。
あと、ボンドが受ける苦痛と与える苦痛、偏質であるが故に大物感と小物感のいりまじったキャラクタを持つ悪役の作り方やその末路などなど、好きなところは多数。

そんな中で一番のお気に入りは…まぁここでは書かないでおこう。
実はあれこそがもっともフレミングらしいやり方であるのだから。