2011/05/04

『ミスター・ノーバディ』"Mr. Nobody"(2009) (ネタバレあり)

テレンス・ヒル主演、セルジオ・レオーネ監督の傑作西部劇!

…の邦題と一文字違いなのが気になっていた『ミスター・ノーバディ』を観ました。
(2011/05/03 at ヒューマントラストシネマ渋谷 シアター1)


ロードショー公開中の洋画新作観るのなんて何年ぶりだろう。



それはさておき…。
(以降ネタバレします)



















見始めてしばらくの間、「ああ、若いっていいなぁ」なんて俯瞰しながら見ていたら実は本当に「若いっていいなぁ」という映画でした。


いや、やりたい事は分かるしある程度はやれているのは分かるのだけれど画面の隅々まで練り込まれているかといえば、やはりこのネタは実写でやるには実写であるがゆえの(映像の)情報量の多さが逆にネックになっているなぁとか、やはり実写だと作品の作り込み(製作者スタッフの話し込み)の足りなさが目につくなぁとか、そういった部分が目立っているように見えて、それが逆に「若い(作り手)だからこそ許されるんだよなぁ」という意味で「若いっていいなぁ」と感じていた次第。
(実際には監督のジャコ・ヴァン・ドルマルは1957年生まれで私より年上(笑))

さらに言えば描きたいことが多すぎて、とにかく「切ることが出来なくて詰め込んだ」感が多かったのもそう感じた部分かな。
しかしながらこの後者はどうやら少なからず意図的であったことがこの話の最後の仕掛けを見たことで分かったのだけれど。
いや、まさかの「東京大学物語」だったとは…。
(ええと、今回の話も「東京大学物語」も好きです。)


あと、気になったのは時代設定。
「1973年生まれ2092年没で34歳までの記憶しかない」という条件づけは良いのだけれど、両親が出会い生まれた頃かかる曲が「ミスター・サンドマン」('54)だったり、主人公の青春時代として描かれるエピソードが70年代80年代の青春映画の匂い、それこそ古くは(と言っていいのか?)『ジェレミー』とか『カリフォルニアドリーミング』などの世代からの匂いを色濃く残していて、かといってもっと年を経てからの話で今の時代の携帯電話が出てきてというところでの「時代設定のさなかに生きてた人であるが故の違和感」がとても引っかかっていました。

「あと20年時代を早くしてくれたらそんなに違和感なかったのに」と思う一方、実際に1973年以降生まれからしてみれば「そんなところの細かい時代差には何の違和感も持たない」のだろうなとも思うし、もしかしたらこれは観客のミスリードを誘うための仕掛けか?とも思うし、ここは最後まで引っかかっていた部分ではありました。


ちなみに、今TV放映されている「Dororonえん魔くんメ~ラめら」もある仕掛けのために「昭和」という時代を(自分の生まれる前から生まれた後までを)広範囲にわたり一括りで提示してきていて、それにやはり違和感を感じていたので、今回この部分に特に敏感になっていた可能性はあります。
これに関しても、しかけとしてかなり面白いとはどちらも思ってるんですけれどね。


でまぁ、話は飛びますがこういう設定の作品であるが故に「どこかで見たもののオンパレード」ではあります。それこそ過去から未来に到るまで。
今作るとここまでの映像が出来るんだという意味で、それはそれで面白かった一方、これはアニメーション、否、漫画という形態であればもっと楽しめたかな、とも思いました。
ここらへんも今の好みか。
一方、父親の側に残ってエリースに告白する頃の主人公は「ああ、これは実写でよかった」と思いました。
というか70年代の青春映画好きとしてはそういうパートに関しては実写で良かった!と思ってた。

ああ、何かこうやって書き連ねて気づいたのは、この作品は(一般的な意味でのメディアミックスではなく)ひとつの作品を表現するためにパート毎に表現方法を変えるという意味でのメディアミックス的な作品であれば、話も整理され、かつ混沌も描けるという意味で良かったんじゃないかなと思った。
…まぁ、とはいいつつもそこまでのことをして成功した作品はないので、それを提示するのも不親切か。


などとまぁ、いろいろと観た後思考を逡巡できるという意味でもとても楽しめた作品でした。
(ここに書いているのはその逡巡した思考の一部ですけれどね。)


…どうやら焦点がぼやけてきそうなのでこのへんで。